東京大空襲・戦災資料センター
2008年2月1日訪問
東京の下町、江東区の街中に東京大空襲・戦災資料センターはある。
最寄りの地下鉄駅(新宿線住吉または西大島)からは15分ほどかかる所だ。
あたりは、1945年3月10日の東京大空襲で大きな被害を受けた一帯である。
もちろんその痕跡をとどめるものは街にはない。
東京の空襲被害について行政による調査・記録ははかどっていない。
それを補ってきたのが「東京空襲を記録する会」だといわれる。
その会による文献や物品の収集を生かす「平和祈念館」建設計画が東京都により進んでいたが、1999年に計画が凍結された。
石原都知事就任の年である。
民間募金によってこのセンターが建てられたのは2002年。
2007年には増築されて、「学びの場」としての環境が整えられた。
館の見学は3階の資料・展示保管室から始める。
B29の模型、集束焼夷弾の原寸模型、焼夷弾筒の実物、焼けこげた着物や生活用品、多くの写真などが展示されている。
灯火管制下の暮らしを再現した部屋もある。
体験者の手記や戦時下の文書類も多く、奥の一室は「戦争と子どもたち」をテーマに、戦時下の教育や学童集団疎開について展示されている。
2階は、ビデオを見たり体験談を聞くことのできるスペースである。
壁面には各種被災地図や空襲被害を描いた美術作品が掲示されている。
日本各地、世界各地の都市空襲の資料も展示されている。
モニターでは、日本の都市空襲を指揮したカーチス・ルメイ(のちに叙勲された)を取り上げたNHKの東京大空襲の番組が視聴できる。
展示の随所に被災した朝鮮人への視点があり、諸外国の空襲についても言及している。
自分の被害ばかりを言い立てる展示ではない。
亀戸駅近くで10歳の頃に被災した二瓶治代さんが体験を語ってくださった。
二瓶さんは避難場所になっていた駅に集まってきた群衆にまぎれて、家族とはぐれてしまった。
気がつくと、駅のガード下で多数の人が折り重なって倒れている下敷きになっていた。
人と人の隙間で助かったのだ。
上に被さっていた人や、周りの人はみんな亡くなっていた。
再会できた家族は無事だったが、前の日に遊んだ友達はみんな死んでしまったという。
焼け出された後、避難先を転々とし、生活の苦しさだけでなく転校生いじめにも遭い、すっかり学校嫌いになった。
空襲体験については子どもにも語ることはなかったが、新聞でこのセンターの設立を知り、思わず駆けつけたという。
ここで体験談を語ることをすすめられたが、最初は語ることに自信が持てなかった。
自分の周りで死んでいった人たちの思いを伝えることはできないと考えたのだ。
そう思いながら初めて語ったのは釜石から修学旅行で来た中学生たち。
あとからよせられた感想の手紙を読んで、二瓶さんは思いを語れば伝わるのだという実感を持った。 それ以来、ボランティアとして証言活動を続けている。
1階は事務所やロビーのほかに資料室がある。
東京大空襲だけでなく、戦争と平和全般に関する文献資料や文学作品、児童書が置かれている。 研究、学習の場として活用できる。
館長は東京大空襲を描いた児童文学を多く出版し、さまざまなメディアで東京大空襲の記録と体験 継承に取り組んできた早乙女勝元さん。
センターでは研究活動、出版活動も行い、その販売もしている。
また毎年3月10日頃をはじめ、子どもの日や夏休みにイベントを企画し、体験の継承や交流をすすめている。
また、戦争を描くドラマや映画の制作のサポートもしている。
行政の支援もなく、都心からも離れ、交通の便もよくないが、戦争を伝えたい思い、平和を願う気持ちが明確な資料館である。
被害の立場にとどまらず、広い視野で戦争と平和について学べる平和博物館であるといえる。